インタビュー第三弾、後編・岡真理氏『思想としてのパレスチナーポストコロニアルの視点からー』

JIPSC/日本・イスラエル・パレスチナ学生会議

日本・イスラエル・パレスチナ学生会議は、イスラエル/パレスチナ問題における、現地において困難な相互の対話の機会を創出することを目的に設立された学生団体です。 毎年夏に議論を交えた合宿体系の事業を行っています。 The official website of Japan Israel Palestine Student Conference.

 『Israel/Palestine for me-私にとってのイスラエル/パレスチナ』企画第3弾!


 今回は、現代アラブ文学とパレスチナ問題を研究されている岡真理氏にお話を伺いました。1時間半にも及ぶ岡氏へのインタビューを通して私たちが学んだ文学を介したパレスチナ問題への視座、そして弊団体の活動に向けたアドバイス等を3回に分けて紹介しております!

 今回はいよいよ最終回です。「パレスチナ問題」の語られ方の移り変わりから、パレスチナの提起する「問い」まで、学ぶことはまだまだたくさんあります。皆さんもぜひ一緒に考えてみてください!

*インタビュー内容は、5月9日にZoomでお話を伺ったものになります。

*一部インタビュー内容に注釈も付けさせていただきました。皆様の新たな学びの一助になれば幸いです。

―目次

・「イスラエル/パレスチナ」から「イスラエル・パレスチナ」へ

・「対話」とは何か?

・「パレスチナ問題」とは何か?

・「パレスチナ問題」という問いから考える日本の植民地主義


「イスラエル/パレスチナ」から「イスラエル・パレスチナ」へ


―日本人はなぜ中東への関心を持つべきなのかというところについて、岡さんなりの考えを教えていただきたいです。

「中東」に、ということですか。

―この場合、中東って言うのは特にイスラエル・パレスチナ問題についてですね…(高柳)

 今、いみじくも高柳くんが「イスラエル・パレスチナ問題」とおっしゃいましたが、そして、この団体の名称も「日本・イスラエル・パレスチナ学生会議」ですね。逆にここで、私が質問したいんですけれども、この場合の「パレスチナ」って何を指しているのでしょうか。

―この学生会議の名前の中の「パレスチナ」ですか?(高柳)

 うん。まさに「日本・イスラエル・パレスチナ学生会議」。日本はわかる。じゃあ「イスラエル・パレスチナ」 って言った時の「パレスチナ」とは?

―この時の「パレスチナ」は、今現在イスラエルに暮らしているパレスチナ人だとか、西岸、ガザに暮らしているパレスチナ人だとか、あとはヨルダンとか、そういうところで難民になってしまっているパレスチナ人だとかを想定しているのだと思います。(高柳)

つまり、「パレスチナ」は「パレスチナ人」ということですね。じゃあイスラエルは?

―イスラエル…難しいな。(高柳)

 つまり、今の定義から言うと、イスラエルにいる、イスラエルの市民権を持っているパレスチナ系の人たちはイスラエルに入らない、ということになってしまいますが……。例えば、2年前の夏にイスラエル国会が、民族国家としての「ユダヤ人国家」法(1)という基本法を成立させましたよね。ユダヤ人のnation stateとしての「イスラエル」。つまり、実態としてはずっとイスラエルはユダヤ人のための国家だったけれど、でも独立宣言で信仰の別なくみんな平等なんだと謳い、アラビア語も公用語として位置付けてきた。でも、それを2年前の法律制定によって全部かなぐり捨てて、イスラエルはユダヤ人の国だと宣言した。


  日本の現状ととても似ていますよね。建前としては憲法9条で軍隊を持たないと言っておきながら、実態としては軍隊を持っている現状を、安倍首相が目論んでいるように、改憲によって実態と憲法の言説を一致させようという、という日本の現状に。

  それを、イスラエルは、やったわけですね。

    だから、イスラエルからパレスチナ系の人たちを除外するというのは、シオニズムが70年間かけて行ってきた、ユダヤ人のnation stateとしてのイスラエルが目指してきたことで、高柳くんのパレスチナの定義だと、それと同じになってしまうのですが、よろしいんでしょうか。

―よろしくないですね。(高柳)


―これは、団体の中でも個人によって意見が違う問題だと思うので、私からも意見を述べさせていただきたいんですけど。私の意見としては、個人が持つナショナリティは一つではないと思うんですけど、対立している問題の場合、個人が持つナショナリティとして大きい方に立たざるを得ないのではないかと。(井口)

 井口さんがおっしゃっているナショナリティというのは、ナショナリティ(国籍)ではなくてナショナル・アイデンティティだと思います。

―そうですね。すみません。ナショナル・アイデンティティです。(井口)

 なぜなら、イスラエルのパレスチナ人はイスラエルの市民権は持っているけれども、イスラエルという国家のナショナリティは持っていない。それが問題ですよね、イスラエルにおいてはね。

  なぜイスラエルのパレスチナ人がイスラエル人というナショナル・アイデンティティよりも、パレスチナ人というナショナル・アイデンティティの方が、井口さんの表現を借りるならば大きいのか、あるいは強いのか、ということを考える時、その背景にはイスラエルが彼らにナショナリティを与えない、イスラエルがそこに暮らす全ての市民のための国ではなく、ユダヤ人のための国であるという問題、イスラエルにおけるパレスチナ人へのレイシズムがあるからですよね。

 そうすると、大きい方に入れ込まざるを得ないと言った時も、結局それはイスラエルの中のレイシズムの問題、つまり、ユダヤ人のnation stateとしてのイスラエルというものが実態としてあるからという話になると思います。

 「イスラエル・パレスチナ」ってすごく問題づくめの名前ですよね。そもそも今、イスラエルと呼ばれている地域だって、もともとはパレスチナなわけだし。もしかしたら若い皆さんにとっては、パレスチナと言ったら西岸・ガザしか意味しないのかもしれないけど、そもそも今、イスラエルの領土とされているところも歴史的にはパレスチナですよね。

 私が80年代初頭にパレスチナ問題に関わり始めた頃は、「イスラエル/パレスチナ」だったのね。イスラエルとパレスチナの間に入るのは、今のような「・(中黒)」ではなく「/(スラッシュ)」でした。みんなイスラエル、イスラエルって言っているけど、あそこはもともとパレスチナ だったんだよという意味でスラッシュだったんです。

 しかし、「イスラエル/パレスチナ」だったのが、「イスラエル・パレスチナ」と決定的に変わったのはオスロ合意(2)以降ですね。かつてのイスラエルだってパレスチナなんだという認識が、二つは別物だという「イスラエル・パレスチナ」になった。そしてパレスチナというものが西岸とガザしか意味しなくなってしまった。その意味でこの「イスラエル・パレスチナ」が何を意味しているのかというのは、すごく問題を含んでいるんですね。

 JIPSCは2003年にできたということもあって、そもそもこの土地をどう表現するのかという、歴史性のある問題を踏まえずに、とりあえず「イスラエル・パレスチナ」と表記して、「対話が必要だ」ということでできてしまった、というような気がするのですが……。


―注釈

1、「ユダヤ人国家」法:2018年7月に制定されたイスラエルの基本法。イスラエルの土地は歴史的にユダヤ人の祖国(homeland)であり、イスラエルはユダヤ人のための国民国家だということが明記された。また、民族の自決権をユダヤ人のみに認め、アラビア語を公用語から外すことなどが、法律の条文に明記された(NewsWeek, 2018, 7, 20)。

2、オスロ合意(1993年):イスラエルとパレスチナ解放機構(PLO)の間で結ばれた合意。パレスチナ暫定自治政府の発足、最終地位協定の発効に向けた交渉の継続など、和平交渉の枠組みについて合意がなされた。しかし、イスラエルの継続する入植地拡大や2000年に始まった第二次インティファーダなどにより和平交渉は決裂に終わった。2020年1月28日にアメリカの大統領、トランプ氏が中東和平案を発表。その内容は「イスラエルより」であるとして多くの批判を受けている(BBC2020.01.29中東解体新書2020.02.05)。



「対話」とは何か?

 もっというと、団体の理念に掲げている「対話の機会を創出する」という文言の、「対話」って何なのか。「対話」って対等なものの間でしか可能じゃないと思うんです。でも、仮にイスラエルが今のユダヤ国家を指し、パレスチナというのをイスラエルのパレスチナ人も含めて、占領された人たちと考えるならば、占領者と被占領者って対等なのか。植民者と被植民者って対等なのか。絶対に構造的に対等ではないわけで、そこを無視して「対話」は可能なのか、というところはやはり問うてみるべきだと思います。

 エドワード・サイードが、イスラエルのユダヤ人の音楽家のダニエル・バレンボイムと一緒にウェスト=イースタン・ディヴァン・オーケストラ(3)を作っていたっていうのはご存知ですか。

―存じ上げておりません。

 サイード自身がピアノも弾いて、音楽にすごい造詣の深い人でした。サイードはパレスチナ人で、バレンボイムはユダヤ人だけど、彼らくらいになっちゃうと、そうした構造的なものがあるのは前提で、知識人として交流するわけですね。で、そういうオーケストラを作って、別にユダヤ人、パレスチナ人に限定せずに、イスラエルのユダヤ人、占領下のパレスチナ人の音楽家、さらには中東のアラブ系、あるいはトルコの演奏家、若い人たちが一つのオーケストラを作って、作品を作る。個人の思想は問わずに。

 オーケストラという場では、みんな対等なミュージシャン、演奏家である。彼らが目指すのは究極的にはハーモニーですよね。だから、オーケストラという場を作って、演奏家としてはみんな対等になる。何者であろうと、占領者であろうと、被占領者であろうと。そこで一つのハーモニーを作るという交流を通じて、対話が可能になる。

 それは構造的な対話の原理的な不可能性を前提としているからこそ、それをどのように乗り越えて対話が可能なのか、ということでできているプロジェクトだと思います。オーケストラでは協力するけれど、俺はパレスチナ人の権利なんか認めないって言っているシオニストでも、逆にユダヤ人なんて認めない、シオニストなんて認めないと言っている人でも、演奏家として相手をリスペクトし、一つのハーモニーを追求していく結果として、1人の人間として出会って、対話が可能になるような人間としての出会いが作られていくっていう。

 だから歴史的、今日的な植民地主義的侵略の構造、原理的な対話の不可能性を前提とした上で、対話がいかに可能なのかを考えないといけないのだと思います。他方で、この学生会議にどういう名称が可能なのかって言ったら、「パレスチナ」だけしか書かなかったら、イスラエルのユダヤ系の人たちが参加する余地がなくなっちゃうし、参加してきても、もうイスラエルの中にひとつまみしか存在しない、絶滅危惧種のような反シオニストしか参加しないだろうし…。でも、イスラエルがあっても同じかな、参加するのは、結局、シオニスト左派に限定されるかな。

  相互を包括する名称としてはこれしかないのかなと思うんだけど。イスラエルのユダヤ人の学生やパレスチナ人の学生が参加して、この学生会議がなければ持てなかったような交流の場が持てているとすれば、結果オーライだと思う反面、でも、仮に最初の発足時にそうした問いがなかったとしたら、すごく能天気だと思うのね。

 そうした構造、歴史性を問わないで、しかも非当事者だからこそ第三者として日本にできることがあるんじゃないかというのは、パレスチナ問題において日本がいかなる当事者としての歴史性を持っているのか、これは早尾さんの話(4)の中にもありましたよね。パレスチナ問題って、そもそも第一次世界大戦の植民地分割、そこに日本は関わっているわけですからね。第三国っていうのは全くの嘘なわけで。


―注釈

(3)ウェスト=イースタン・ディヴァン・オーケストラ:ダニエル・バレンボイムとエドワード・サイードの取り組みに関しては以下もご参照ください(Classic Japan)。

(4)本企画の初回で取材させていただいた早尾貴紀さんへのインタビュー。詳細はインタビュー記事、「インタビュー第一弾、早尾貴紀氏『思想史の観点から見たイスラエル/パレスチナ』」をご参照ください。



「パレスチナ問題」とは何か?

 そこを踏まえた上で、私はさっき申し上げたように「思想としてのパレスチナ」だと思っています。

 パレスチナ問題の「問題」って英語で言ったらなんだと思う?日本語で普通にパレスチナ「問題」って言ってるけど、「問題」に相当する英語って色々ありますよね。

―Issueですか。

Problemはなんか違うだろうって感覚はあるかもしれないけど、他に。

―学生会議の中では、私たちが扱う問題を言う時は、Conflictを使っていると思います。

 でも、パレスチナ紛争とは言わないよね。conflictという言葉を使うときは、「イスラエル・パレスチナ紛争」になりますよね。すると先ほどの「日本・イスラエル・パレスチナ学生会議」と同じで、そのときのパレスチナってどこなのか、何なのか、イスラエルって何なのかという、本来、問われなければいけない問題が問われないまま、自明のこととして出てくるし、かつ世界には数多の紛争がある中のone of themになってしまいますね。しかし、パレスチナ問題の発端、起源というのは、シオニズムによるヨーロッパユダヤ人、シオニストによる植民地主義的侵略であるという、ここは絶対に動かせないところだと思うんです。


 パレスチナ問題をconflictと位置付ける発想というのは、私、かなりシオニズムのプロパガンダが成功していると思うんですね。紛争は世界に数多ある、例えばインド・パキスタンのカシミール紛争だってあるわけだし、国境をめぐって、領土をめぐっていろんな紛争がある。

 でも、パレスチナの場合、例えばアルザス・ロレーヌにおける、ドイツとフランスといったそういう一つの領土をめぐって対等な二者が争っているわけじゃない。例えば、「日本・朝鮮紛争」って言ったら、この呼称って、問題を隠蔽していますよね。それって日本の植民地支配の問題なわけだし。あるいは例えば南アフリカのアパルトヘイトは終わったけれど、アパルトヘイト時代にあれを、アフリカ共和国対マンデラ率いるANCの紛争って言ったら、そこに孕まれている南アの植民地主義的な政策、レイシズムっていうのを隠蔽していることになってしまう。

 「パレスチナ問題」という言い方をすると、それに異議を唱える人たちもいます。「パレスチナ問題」じゃないだろ、「イスラエル問題」だろうと言って。でも、なぜパレスチナ問題と呼ばれる問題が起きたのかと言えば、ヨーロッパにおける歴史的なユダヤ人差別の問題が根底にある。その結果としてイスラエルがあるわけで、イスラエル問題って言ってしまうと、イスラエル建国以前にさかのぼる、ヨーロッパ・キリスト教社会における歴史的なユダヤ人差別と反ユダヤ主義の問題も見えなくなってしまう。

 それから、パレスチナで起きていること、あるいはパレスチナ人に起きたことというのは、東アジアの歴史のなかで、朝鮮で起きたこと、沖縄で起きたことであり、アイヌモシリで起きたことであり、これなんかまさに早尾さんの話と重なるんだけど、植民地主義後の日本において、日本社会の中で今、起きていることでもある。自分たちの民族の歴史を教えるということがその社会において孕み持っている意味とかね。ナクバの記憶をナショナル・ヒストリーから徹底排除するイスラエルと、アジア侵略の記憶を排除しようとする日本。そういう問題と非常に重なる。

 だから、それを「イスラエル問題」と言ったら、東アジアの私たちの社会で、私たちの歴史で起きていることとは関係ないこと、それこそ第三国である私たちが国際平和を考えるのに、「イスラエル・パレスチナ紛争」に興味を持つのは大事ですよねって話になっちゃう。そうじゃないだろうっていうのを包括するものとして、この時の「問題」っていうのは、エドワード・サイードの著書、日本語では『パレスチナ問題』と訳されていますが、英語の原題では、”The Questions of Palestine”。Questionって言うんですよね。パレスチナという「問い」。

 パレスチナというものが、現代世界で生きている私たちにいかなる「問い」を投げかけているのか。そう考えると、パレスチナ問題、まさに「思想としてのパレスチナ」が現代世界に生きる私たちにどのような思想的な「問い」を提起しているのか、という意味で、私たちのありようとも決して無縁ではない。


「パレスチナ問題」という問いから考える日本の植民地主義

 ここまで話してきたように世界に数多ある紛争の一つとして、「イスラエル・パレスチナ紛争」というものがあるんじゃなくて、「パレスチナ問題」という問いがあるんじゃないかと考えたときに、私たちはその「問い」の中にいるんです。問われる存在として。山口淑子さんってご存知ですか。

―存じ上げておりません。

 李香蘭、と言っても知らないか。日本人女性で、中国生まれで、戦時中に日本の国策映画会社の満洲映画で活躍したスター女優さんです。実は日本人で、でも中国語も堪能だったから、中国名で、その当時は中国の人たちも彼女を中国人だと思って見ていたわけです。

 でも、満州国という日本の中国侵略に加担する映画にいっぱい出ていたということで、中国にとっては売国奴ですよね。戦後、中国で裁判にかけられて、死刑判決が出るんですけど、彼女は中国人じゃない、日本人なんだっていうことを証言してくれる人がいて、死刑を免れて、彼女は日本に帰ってきて、女優さんとして活躍していきます。その後ニュースキャスターになって、自民党から立候補して参議院議員にもなります。

 昔、『3時のあなた』という午後の主婦向けのニュース番組があって、キャスターを務めていたときに、彼女はイスラエルに行ったんですね。そこで彼女は自分自身の経験から分かるわけですよ、イスラエルは満洲なんだということを。

 その当時は日本・パレスチナ友好議員連盟っていうのがあって、彼女はその議員連盟にも入っていました。いみじくも日本の満洲、中国大陸政策によって彼女は翻弄されるわけだけど、その経験を持っている彼女にとって、満洲という人工国家が日本の中国侵略において打ち込まれた楔(くさび)であるように、イスラエルもそうなんだと、パレスチナ人は満洲国家の建国によって、日本人の支配のもとに、非支配階級としておかれた、あるいは土地を奪われた、中国人なんだということがわかる。

 例えばこのような形で、「思想としてのパレスチナ」、「パレスチナというQuestions(問い)」という視座には、グローバルな近代の歴史、植民地主義的な侵略とかがあらゆるところで起きていた、といったところを包摂した、そしてまた、ポストコロニアル的な問い、諸々全てを包摂したものとなるんですよね。

 私たちの外部に「イスラエル・パレスチナ紛争」があるのではないんです。そう考えると、なんで日本の私たちがパレスチナ問題に関心を向けるべきなんでしょうかという問いも、そうじゃない、っていうことですね。パレスチナ問題は私たち自身の問題なのだから。

―新しい、大きな視点をいただきました。

 そうですか、よかったです。私がアラビア語科の頃って、藤田進先生っていう方がいらして、彼が歴史担当だったんですよね。藤田先生の『蘇るパレスチナ』っていうご著書がありますけれど。

 今、私が申し上げていたことっていうのは、あの当時の常識なんです。パレスチナ問題というのは、そういうポストコロニアルの問題にほかならなかった。でもその普遍性が徐々に徐々に掘り崩されていって、今、「イスラエル・パレスチナ紛争」という、世界の紛争のひとつに矮小化され、私たち自身の足元が問われる問題の根本部分、植民地主義の問題が見えなくされています。

―弊団体も17年もこの名称で続いてきてしまったので、名称を変えることは難しいんですけど、私たちの会議の中で何をするかっていうところを考えていきたいです。

 問題の歴史性を踏まえて、まさにそのquestionsを参加される方たちが共有しているか否かが大切ですよね。

―色々議論に値するところだと思いますね。ありがとうございました。

 是非カナファーニーを読んでください。『前夜』という雑誌がありました。12号まで出ていて、それに私、カナファーニーの作品を翻訳していました。さっきいった河出文庫に収録されていない作品もあるし、収録されている作品も新訳で、『ハイファに戻って』も新しい訳で出していますので、よかったら読んでいただければと思います。

―新たな学びをありがとうございます。

聞き手:高柳、井口


まとめ

 「パレスチナという問い」は、ポストコロニアルの時代に生きる私たち全員に問われているものです。これまでの歴史から生じた歪みとも言えるような諸問題とどのように向き合っていくのか、植民地主義の負の遺産全てを内包していると言っても過言ではない「パレスチナ」をスタートに、現代日本が孕む諸問題についても考えて行きたいです。

 また、本インタビューでは弊団体の「イスラエル・パレスチナ」という表記の問題性、理念として掲げる「対話」の定義について有り難いご指摘を頂き、弊団体の団体としての視座について今一度話し合う必要性を感じました。残念ながら2020年度夏会議はコロナウイルスの感染拡大防止のため中止となってしまいましたが、この機会に学生会議のあり方について、より良いかたちになるよう、考えていきたいです。

 今回のインタビューからは多くのことを学ばせて頂きました。貴重なお時間を割いて頂いた岡先生に、改めて感謝申し上げます。

JIPSC/日本・イスラエル・パレスチナ学生会議

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