インタビュー第三弾、前編・岡真理氏『思想としてのパレスチナーポストコロニアルの視点からー』

JIPSC/日本・イスラエル・パレスチナ学生会議

日本・イスラエル・パレスチナ学生会議は、イスラエル/パレスチナ問題における、現地において困難な相互の対話の機会を創出することを目的に設立された学生団体です。 毎年夏に議論を交えた合宿体系の事業を行っています。 The official website of Japan Israel Palestine Student Conference.

 

『Israel/Palestine for me-私にとってのイスラエル/パレスチナ』企画第3弾!


 今回は、現代アラブ文学とパレスチナ問題を研究されている岡真理氏にお話を伺いました。1時間半にも及ぶ岡氏へのインタビューを通して私たちが学んだ文学を介したパレスチナ問題への視座、そして弊団体の活動に向けたアドバイス等を前編・中編・後編の3回に分けて紹介していきたいと思います!

 もともとパレスチナ文学に関心があった岡氏。しかし学部、大学院ではエジプトの作家について研究。その後も「第三世界フェミニズム思想」を紹介することに。第1回はそんな岡氏が紆余曲折を経て現在の研究に至るまでの軌跡を辿ります。

*インタビュー内容は、5月9日にZoomでお話を伺ったものになります。

*一部インタビュー内容に注釈も付けさせていただきました。皆様の新たな学びの一助になれば幸いです。

―目次

  • パレスチナへの長い旅路
  • 近代的な「普遍的価値観」と根強く残るレイシズム
  • パレスチナとの出会いはアッラーの思し召し?



パレスチナへの長い旅路


–まずは、岡さんの研究内容について教えていただけますか。

 20年くらい前まで「第三世界フェミニズム思想」と名づけたものを私自身の専門に挙げていた時期もありました。90年代は主に、その第三世界フェミニズム思想の紹介、あるいはそこに立脚した視点でものを書いているということが多かったです。

 ただ、もともとはパレスチナ問題を、文学を通して思想の問題として研究したかったので、第三世界フェミニズム思想を掲げて、それについて論じることになったのは、ある種の成り行きの結果でした。

 私が学生だった頃は、東京外語大学のアラビア語専攻学生の留学先は、エジプトしかなくて、本当はその当時からパレスチナに行きたかったけれど、学部4年生のときにエジプトのカイロに留学をしました。せめて卒論はパレスチナ問題で書きたかったけれども、カイロにいると、エジプトのことしか考えられないんですよね。エジプトの重力がとてつもなく重くて。エジプトで生活しながらパレスチナ文学に取り組むことはできないと分かって、それでエジプトの作家について卒論を書きました。

 大学院ではパレスチナ人の小説家のカナファーニー(1)について研究するぞと思って院に進学しましたが、修士に3年いたんですが、3年間があっという間で、結局、修論でも、学部時代の卒業研究でテーマにしたエジプトの作家、ユーセフ・イドリース(2)について扱いました。その後も、パレスチナに留学したかったのですが、修士終わった後に専門調査員で行ったのがモロッコでした。だから、自分の思いとは逆に、物理的にはどんどんパレスチナから遠くなっていっちゃったんですよね。


 私自身にとって幸運だったのは、大学に入る前年に、エドワード・サイード(3)の『オリエンタリズム』の英語原著が出版されたこと。日本語訳が刊行されるのは1986年になってですが、アラブ中東イスラーム世界に学問的に関わろうとする入口で、オリエンタリズム批判の言説に出会えたことは大きかった。


 モロッコに3年間いて、日本に帰国したあと、イスラーム世界の女性、あるいはアフリカの女性たちといった第三世界の女性たちの表象をめぐる問題に、オリエンタリズムやレイシズム、植民地主義の観点から取り組むようになりました。この頃、先進工業世界、いわゆる第一世界の女性たちが、善意からなのだけど、「(第三世界の女性が自文化によって)抑圧されているから、解放しなければ」ということで運動を起こしていました。

 第三世界の女性たちが、彼女たち自身の文化によって抑圧されている、というのは一面においては事実であるにしても、過去の植民地主義の支配があり、その延長線上に現代の新植民地主義があるという、そういった歴史的かつグローバルな抑圧構造もあるわけですよね。その中で、第三世界の女性たちは、歴史的あるいは今日的な植民地主義、あるいは継続するコロニアリズムによっても抑圧されているわけで、当該社会の宗教、文化、習慣などによってのみ抑圧されているわけではない。第三世界の女性たちの抑圧を問題にするのであれば、歴史的あるいは今日的に、彼女たちの抑圧に構造的に加害者として加担している先進工業世界とか第一世界の女性たちは、自分たちの加害性を認識しなければいけないはずです。

 しかし、えてしてそこを問題にせずに、例えばイスラームという信仰がイスラーム世界の女性たちを抑圧していると認識されてしまう。確かに家父長主義的、男性中心主義的に解釈されたイスラームが、ムスリムの女性たちを抑圧しているという側面もあります。あるいはアフリカの習慣がアフリカ社会の女性たちを傷つけ、抑圧しているという側面もあります。でも、そこだけに注目すると見えなくなるものもある。

 西洋のフェミニズムは、 “Sisterhood is Global” 、女性たちはみんなsisterなんだと言って、第三世界の女性たちを自文化の抑圧から救済しようとする。しかし、コロニアリズムについてガヤトリ・スピヴァク(4)は “White men saving brown women from brown men”「白人の男が褐色の肌の女を褐色の肌の男たちの抑圧から解放する」と定式化しています。「西洋の女性が、非西洋世界の女性たちを彼女たちの文化の抑圧から救済する」という考えは、「白人の男」に代わって「白人の女」が、フェミニズムの名の下に、植民地主義的な言説、あるいは言説的抑圧を再生産している状況にある。このことに対して、90年代前半に、日本社会はまだ、非常に無自覚でした。それに気がついた以上は、それについて誰も書かないなら、私自身がそれを批判しなければいけないと思い、当時はいろいろ書いていました。「第三世界フェミニズム」と名付けて。

 その当事もずっとパレスチナ問題をやりたいという思いがあったのですが、90年代は結果的に、第三世界フェミニズムに専心的に取り組むことになりました。だから、京都にきたのが2001年なんですけれども、京都に来て、ようやく学生の頃から取り組みたかった「パレスチナ」にがっつり取り組めるようになったという感じですね。

 今は「第三世界フェミニズム」については、もう書いていません。自分の中では90年代に、自分に書けることは全部、書き切った、という思いがあって。なので、今はプロフィール欄には、現代アラブ文学とパレスチナ問題とだけ書いています。自分の中ではこれらはつながっていて、そもそも文学を専攻したのは、文学を通してパレスチナ問題を思想的に研究したかったからなので。ですから、回り道をしましたが、20年を経て、ようやく学生の頃からの積年の夢が叶ったという感じですね。


―注釈

1、ガッサーン・カナファーニー (1936 – 1972):パレスチナ人の活動家であり、小説家。1936年にイギリス委任統治下のパレスチナに生まれ、1948年にナクバを経験、難民となる。その後、小説家として執筆活動を行う一方で、1967年に設立したパレスチナのマルクス主義系組織、パレスチナ解放人民戦線(PFLP)で政治活動もした。1972年にPFLPは後に日本赤軍を名乗ることになる日本人活動家の協力を得て、イスラエルのテルアビブ空港で銃の乱射事件を起こす(注9参照)。その直後、当時PFLPの公式のスポークマンだったカナファーニ―は、事件への関与の疑いで、ベイルートにてイスラエルの諜報機関、モサドによって暗殺された。彼の邦訳された作品としては『太陽の男たち/ハイファに戻って』(河出文庫)などがある。

2、ユーセフ・イドリース(1927-1991): エジプトの小説家。カイロ大学(1945–51)で医学を学ぶ傍ら、執筆活動をはじめる。左派として、当初はナセル大統領を指示していたが、後に反体制派として活動。数回に渡り投獄される。1960年代半ばから医者としての活動を止めて、文学に時間を割くように。ノーベル文学賞にもノミネートされたが、翻訳作品が少なく、多くの作品が知られていないなどの理由から、エジプト人、アラブ圏、初の受賞を逃した。

3、 エドワード・サイード(1935-2003): パレスチナ出身の文芸批評家。オリエントに属するアラブ出身のパレスチナ人知識人として、欧米(西洋)的教育で培われた<オクシデント>的知性を武器に、いかに<オリエント>、<イスラーム>、そして<パレスチナ>が、<オクシデント=欧米>、<ユダヤ>、そして<シオニズム=イスラエル>の支配的な言説によって自らを<表象=代表>する機会を奪われてきたかを告発してきた(臼杵、1998、P.186)。代表的な著作に『オリエンタリズム』(1978)がある。

4、ガヤトリ・スピヴァク(1942-現在):インド出身の文芸批評家・教育家。「サバルタン」、つまり「みずから語る」ことの不可能な場所へ追いやられた人びとを論じた著作『サバルタンは語ることができるか』は、エドワード・サイードの『オリエンタリズム』と並ぶ、ポストコロニアルの代表作。


近代的な「普遍的価値観」と根強く残るレイシズム


―先ほどの「第三世界のフェミニズム」に関するところで、第三世界の女性は植民地主義の支配やその延長線上にある新植民地主義、そしてグローバルな抑圧構造に晒されているというお話が合ったと思います。この点に関して、現在例えば国家は民主主義的であるべきだとか、人権を守るべきだということが多く言われていますが。そもそも何が民主主義的で何が人権侵害に抵触しないか、といったグローバルスタンダードは欧米圏(第一世界)の国の価値観によって作られていると思います。その点についてはどうお考えですか。


  現状に関しては、例えばヨーロッパでは、かつてのようなあからさまなレイシズムはなくなったかもしれませんが、でも、フランスでは「宗教シンボル禁止法」(5)ができて、マグレブ(6)に歴史的出自をもつムスリム女性が自己の文化的アイデンティティを表現するのは法律で禁止されています。一方で、例えばシャルリー・エブド事件(7)に象徴されるように、「表現の自由」は西欧社会の価値観であり、また普遍的な価値観なんだという形で、ムスリムたちにとって大切な預言者を冒涜することが、「表現の自由」の名の下に許される。だからと言ってあの時起きたテロを肯定するというわけではないけれど。でも、「表現の自由」という錦の御旗のもとで、大切なものを傷つけられて傷ついている人たちがいる、彼らのその思いを、「表現の自由」を理由に一顧だにしない、というのは、果たして正しいことなのか。ラシュディの事件(8)と同じ構図ですよね。

 「私はシャルリー」(9)と主張する人たちは、そうした「表現の自由」という近代的、普遍的な価値観を理解しないものたち(ムスリム)が、暴力的なことをしている、と認識している。近代的価値観を理解せず、暴力に訴える野蛮な異文化、という「オリエンタリズム」「レイシズム」を指摘できます。でも、彼らが暴力を行使する背景には、何があるのか。「私はシャルリー」には、そもそもそこにある種のレイシズムが孕まれているということが隠蔽されています。

 同じことは例えばフランス社会のムスリムの女の子たちのヒジャーブに関しても言えます。自分たちはフランス人であり、アラブ系であり、ムスリムである、という複合的なアイデンティティを持っていて、主体的にヒジャーブを被っている人たちもいるわけですね。でもそれを、「ここはフランスなんだ」と、「公共空間におけるそうした宗教的なシンボルの誇示するのは許されないんだ。世俗主義がフランス共和国の理念なのだから、フランス人であるならばそれに従え」、と言って制限する人たちがいるわけです。そこで唱導される「ライシテ」(10)とは、そもそも、歴史的なカトリックによる個人の自由の抑圧を批判して、人権を守るためのものとしてあったのに、それが、今では、他者に同化を強制し、その人たちの文化的なアイデンティティを否定するための方便に使われている。この現象を、文化的レイシズムと言います。だからレイシズムは、現在でも、巧妙に形を変えて、「普遍的」価値観を掲げながら続いています。


―注釈

5、宗教シンボル禁止法:2004年にフランスで制定された法律。制定当初は公立学校における宗教的シンボル(イスラム教のスカーフ、ユダヤ教のキッパ、キリスト教の大きなクロスなど)の着用を禁止するものだった。しかし、現在はこの禁止の適用範囲が学校や図書館、政府の関連機関を含む公的な機関へと拡大している。

6、 マグレブ:マグレブは現在のモロッコ、アルジェリア、チュニジアに当たる地域で、アラビア語で「日の没する地」、つまり西方を意味する。フランスでは第二次世界大戦後、労働移民としてマグレブ諸国から多くの移民を受け入れてきた。その背景にはこれらの諸国がフランスの旧植民地であり言語的問題が少ないことと地理的に近いということが考えられる(森、2002、P.30)。

7、シャルリー・エブド襲撃事件:2015年にフランスの新聞社、シャルリー・エブド社が自動小銃をもつ2人組の男に襲撃され、編集者ら12人が銃殺された事件。シャルリー・エブド社は風刺を売り物としており、過去にはイスラム教の預言者ムハンマドを揶揄するような風刺画を掲載し、「表現の自由」と「宗教の尊厳」について物議を醸したことがある。この事件と「表現の自由」の二面性に関する考察は以下の記事をご参照ください(六辻、2015)。また、この事件への第一世界メディアによる反応の一例としては以下の記事をご参照ください(HUFFPOST、2015)。

8、サルマン・ラシュディ(1947~):イギリスの作家、インドの裕福なムスリムの家庭に生まれる。1988年に出版された小説、『悪魔の詩』はイスラム教の預言者ムハンマドの生涯を題材にしており、その内容はイスラームを冒涜しているとしてイスラーム教徒から多くの反発を受けた。1989年に、彼は当時のイランの最高指導者ホメイニー師からイスラム法のファトワー(宗教指導者から出される宗教令)による死刑宣告を受けた。また、イタリア、ノルウェー、トルコなど各地で、翻訳関係者らに対する襲撃事件が起きており、日本では、1991年に翻訳者である五十嵐一筑波大学助教授が何者かによって殺害された(デイリー朝日、2019)。なお、ラシュディは、2015年のフランスの風刺週刊紙「シャルリー・エブド」の銃撃事件を受けて、風刺を擁護するコメントを発表している(Haffpost、2015)。

9、「私はシャルリー」:2015年、1月7日に起きたシャルリー・エブド襲撃事件を受けて、パリの共和国広場を中心として起きた抗議デモのスローガン。「私はシャルリー」というスローガンは、シャルリー・エブドの論調に反対であっても、シャルリー・エブドの表現の自由がテロに屈してはならないという意志表明。フランスにおいて、信仰の自由に対して表現の自由を重視する国家理念が誕生した歴史的背景や、「私はシャルリー」を掲げた抗議運動の光と闇については「「私はシャルリー」の光と闇―神、近代、そして共和制 ―」(中川、2015)もご参照ください。

10、ライシテ:国教を立てることを禁じ、複数の宗教間の平等と宗教の自由を保障する宗教共存の原理。公私二元論をとり、公的空間において宗教的中立を遵守し、私的空間において「信教の自由」を認める。この原理は、フランスの普遍的市民権の基本となる。ライシテの解釈の変遷とイスラム教徒のスカーフの問題に関する考察は、以下もご参照ください(岩下、2011)。



パレスチナとの出会いはアッラーの思し召し?


―岡さんがそもそもパレスチナに興味を持ったきっかけや、アラブ文学という視点から思想を読み解こうと思ったきっかけは何ですか。

それは、そもそもなんでアラビア語科に入っちゃったのかっていう…

―そういう感じになりますね。

私から聞いていいですか?井口さん(今回のインタビュアー、JIPSC18期生/大学ではアラビア語を専攻)はなぜアラビア語科に入ったんですか。

―私は、アラビア語の文字が好きで…(井口)

じゃあ、入る前から知ってたんだ。アラビア文字とか。

―いや、全然知らないんですけど、雰囲気で入りました。もともと、地元の民間ユネスコで活動してて、平和構築活動に興味があったんです。安直な考えなんですけど、中東ってどうしても日本の中では、テロや紛争のイメージが強い地域なので、文字もかっこいいし、そういう地域のことを少しでも理解できるようになるんじゃないか、ということでアラビア語を選びました。(井口)

 多分、私たち、アラビア語科に入るとね、みんなから聞かれるでしょ。何でアラビア語科入ったのって。これ、多分一生聞かれると思う。私はある時点から、何でアラビア語を?って聞かれたら、"هذا مكتوب على الجبين"、これは私の運命として額に書かれていたんですって答えるようになりました。それを言うと、アラブ人はみんな納得してくれる。

 最初は同じことを何度も繰り返すのが嫌で、これは「アッラーの思し召しだったんです」というようになったんだけど、今では本当にそうだと思う。大学に入った当初、そのことに自覚的だったわけではないんだけれども、遡って考えてみると、子供の時から中東、特にパレスチナ/イスラエルがらみで起きた出来事が、ものすごく記憶に残ってるんです。

 1970年代にハイジャック事件とかが起きるようになって、72年の5月、テルアビブの空港でのちに日本赤軍を名乗ることになる人たちの事件(11)があり、その年ミュンヘンオリンピックで、あのミュンヘンの黒い9月事件(12)があり、とか。

 同じ時期に例えばベトナム戦争だってあったし、チリではクーデターがあったし、世界中でいろんなことが起きているのに、なぜかパレスチナ/イスラエルのことだけ、幼心に印象深く記憶に刻まれていて。それと中学、高校と、ホロコーストに関心があって、テレビで、ホロコーストに関係するドキュメンタリーや映画があったら必ず見ていました。

 私が大学に入ったのは1979年なのですが、その前年ですね、キャンプデーヴィッド合意があり、そして、79年にイスラエル・エジプトの単独和平がありました。

1979年3月26日、ワシントンでカーター米大統領(中)とともに握手する

エジプトのサダト大統領(左)とイスラエルのベギン首相(右)(日経新聞より


 アラビア語科を選んだのは、ホロコーストの問題を、「ヨーロッパで起きたホロコースト」ではなく、ホロコーストが起きてその後、舞台が中東に移った、「ポスト・ホロコースト」の問題としてやりたかったのではないかな。

 ただその頃はジャーナリストになりたくて、ジャーナリスティックな関心でした。それが、大学の1年生のとき、カナファーニーの作品集を読んだんです。70年代半ばに、河出書房から「現代アラブ小説全集」全10巻が刊行され、そのうちの第5巻だったかな、それがカナファーニーの『太陽の男たち/ハイファに戻って』でした。2、3年前に河出から文庫版が出ました。ぜひ、読んでください。

 私が大学に入る前の年にカナファーニ―の作品集が日本語で出ていて、のちに私の指導教員となる奴田原睦明先生がそれを訳しておられて、ある日、研究室にいった時に、「あなたパレスチナ問題に興味があるんだったらこの本を読んでみたら」と手渡されたんです。

 今思うと、当時の自分のパレスチナ問題に関する認識というのは完全にシオニズム的でした。ユダヤ人がホロコーストに遭って迫害されて、ようやく自分たちの祖国を作った。それなのにアラブ人テロリストが攻撃してくるという理解でした。それが、カナファーニーの作品を読んだら……。彼は難民出身の作家なので、彼の作品はまさに難民の物語です。それを読んで、パレスチナ難民って何!?って衝撃を受けたんですね。

 多分、今、パレスチナ問題と出会う皆さんにとっては、パレスチナ難民の存在って当たり前かもしれないんだけれど、その当時、アラブ・ゲリラとかパレスチナのテロリストっていう表象はあっても「パレスチナ難民」という表象は一般的ではなかったと思います。カナファーニーの作品を通して初めて私はパレスチナ難民の存在に出会いました。最初はプロパガンダだと思いました。イスラエル憎しでこんな話を書いているのかなってね。

 でも、だんだんそうじゃないってことがわかって。3年生になる春休みに、エジプトに旅行に行きました。エジプトにいったらみんなカナファーニーを知ってると思って、聞いたけどカイロ大の文学部の人も知らなくて、ちょっとガッカリして。本屋さんという本屋さんを全て回って、見つけたカナファーニーの作品を全部買って帰り、辞書を引き引き、読んだり、日本語に訳したりしました。

 ジャーナリズムと文学に関心があったのだけれども、もともと文学が好きなこともあって。ホロコーストだったら、文学研究とか映画だったり、そういう研究っていっぱいありますよね。当時はすでにホロコーストの問題について映画を含めた広い意味での文学の表象を通して思想として研究するっていうのは当たり前でした。でも、パレスチナになるとそれはなくて、あくまで国際関係とか国際政治の問題でした。そうではなくては、ホロコーストが研究されているのと同じように、文学を通し、小説とか狭い意味での文学だけではなく、広い意味の表象全般を通して、思想的に研究したいと思った。それで、大学院に行ったんだけど、先ほど言ったとおり、なかなかパレスチナに関わることはできませんでした。

聞き手:高柳、井口


―注釈 

11、イスラエル・テルアビブ空港乱射事件(1972年5月):イスラエルのテルアビブ空港で起きた乱射事件。極左の活動家である日本人3人が自動小銃を乱射し、居合わせた旅行者ら約100人が死傷した。岡本容疑者以外の2人は自爆死したとされる(毎日新聞、2017)。この事件をきっかけに日本赤軍の存在が明らかになる(公安調査庁)。事件前、同組織のメンバーがパレスチナの武装組織、パレスチナ解放人民戦線(PFLP)と接触したと考えられており、この事件の直後、当時PFLPの公式のスポークマンだったパレスチナ人小説家、ガッサーン・カナファーニーは、事件への関与の疑いで、レバノンのベイルートにてイスラエルの諜報機関、モサドによって暗殺された(注1)。

12、 ミュンヘンオリンピック事件(黒い九月事件)(1972年9月):パレスチナの武装組織「黒い九月(Black September)」によって行われたテロ事件。事件はミュンヘンオリンピック開催中に行われ、実行犯は選手村に侵入、イスラエルのアスリートら11人が殺害された(News Dijest、2020)。なお、1970年にパレスチナ解放機構(PLO)は拠点としていたヨルダンと衝突し、レバノンに拠点を移すことになった。この一連の出来事は「黒い九月事件」と呼ばれており、先の武装組織の名前もここから来ていると考えられる(BIRD IN FLIGHT)。



まとめ


 岡氏の以前の研究テーマである「第三世界のフェミニズム」も大変興味深く感じました。自らの加害性を認識することが、レイシズム的な抑圧の撲滅に繋がるのかもしれません。

 勉強不足で恐縮ですが、カナファーニーの著作にまだ触れたことがなかったので、これを機に読んでみたいと思います…!

 次回は、メインテーマとも言えるパレスチナ問題について、岡氏に語っていただきます。ぜひお楽しみください。

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